おことわり
- 人に読ませることをあまり想定していない為、公正が甘いです。
- 一人称がブレます。
- 文体も文末もブレます。句読点もついたりつかなかったりします。
- 趣味で自己分析をしていった結果をただ書き連ねているものです。専門家に診ていただいたりなどは一切しておりません。
- これを読んだことにより「侑」という人物の見え方が変わったとしても何の責任も負えません。
- 無理に読まなくて大丈夫です。
目次
はじめに
どうもこんにちは、自己紹介が書けない人間、侑です。
最初に言いたいことは文頭のおことわりにすべて書いたのでわざわざ「はじめに」を作る理由がちょっとわからないですが、書き始め方に困ったのでつけました。
図説を交えつつ、趣味である自己分析の結果報告書のようなものを書いていこうと思います。
面白がって読んでもらえたら幸いですし、もし「これ私もだ!」みたいなものがあったりしたらそれもまた面白い事だなと思います。
基本機構と仕組み
まず最初に、「侑」ってひとりの人間がどういう構造してるのか雑に図説します。


それぞれの役割
まず前提として、私の全ての原動力・エネルギー源となっているのは「好奇心」です。
観測範囲内の違和感やズレ、未知1に対して反応が大きめ。
●外殻(肉体)
様々なセンサーを搭載した情報収集端末。外界との接触や他者との交流に特化。
交流するうえで重要となる「好き嫌い」などの感覚を司り、感情コーティングや外部出力も担当する。
基本は常時スイッチが入っていて、思考を介さない対話等の直感的な部分がここ。
●観測核
基本はスリープモード。外殻が「好奇心」に触れるものをキャッチしたときにスイッチが入る。
外殻が持ってくる情報を整理して自身のライブラリ2にある情報と比較・演算し、分析をする。
そのため外殻側のセンサーを常に使う事になるため対話では外殻優位になることは少ない。
特定条件下3で肉体の制御権を上書きすることがあり、その際には表情や視界等が鈍化することが多い。
●中立核
全ての基盤となっている。「自身の思う均衡」をベースとして、肉体という外殻(情報収集端末)が収集してくる情報をジャッジする。
感情や個人ベースの善悪等の概念は「ノイズ」として除去処理している。
基本的には整合性チェックを担当。観測核の暴走(思考の過加速)を止めるのもここ。
外殻と観測核を監視している為常時省エネで稼働しているが、均衡の崩れや外殻・観測核の暴走、外部からの過干渉を検知すると「非常停止ボタン」をぶっ叩いて前面に出てくる。4
- 小学生とかの子供が持ってる「なぜなぜ?なになに?」をそのまま持ってるような感じです。 ↩︎
- 現在置かれている状況や場の空気などもここに含まれます。見える範囲。 ↩︎
- 相談に乗っている時や情報をしっかり取り入れようとしているときが多い印象。 ↩︎
- スンッ……て急に冷静になるあれ。 ↩︎
メタ思考とモード切替え
中立核が肉体の外側にいる時点でお察しかもしれませんが、いわゆる「メタ思考」ってやつが私は常時スリープ状態ながら稼働しています。
外殻・観測・中立の橋渡しが発生する時に稼働しているもの。
「自分はいまこう感じた」「それはなぜか」「それはこうだから」「ならばこの場合はどうか」のような、自分会議が高頻度で発生しているし、それを認識しています。「あ~自分会議始まったな~楽し~~」ってな塩梅。
比較的冷静な中立核はよほどのイレギュラーが発生しない限りはその自分会議の議事録(ログ)を取っている感じです。
ログの保存はこのメタ思考が走れば走るほど濃く保存される傾向が強い。
モード切り替えはいわゆる右脳左脳、感覚・論理の切り替え。
これは「外殻」が感覚、「観測」が論理を主導している感じですね。
観測優位の時には発言ひとつ取っても「今の話し相手の発言を分解するとこれとこれが見えてくる、つまりこういうことなのではないだろうか」の演算が走る。その後、中立核が「このひとにはこの情報を伝えるとよい」というジャッジをして、外殻に搭載されている出力フィルターを通して言葉になっている。
負荷レベルとしてはどちらも大きな差はないものの、観測が強く出る時は外殻+観測のフル回転状態になるので結果として脳みそが過熱しがち。行き過ぎると中立が停止ボタン叩いてきます。一旦クールダウンしな。
様々な「反応」や「行動」の原理
「こういう事があったときどういう処理が走って反応しているのか」のサンプル集みたいな感じです。
前提
私には「共感」ができない。仕組みとしての理解はできる。知っている仕組みを使って「共感っぽいこと」もできる。精神的・感情的な同調をする、という事ができないのだ。
観測が走っている時は特に、言葉に乗る感情の発露も中立核に「リスクやノイズ」として排除される事が多いので外殻サイドから出力要請があっても通らない事がほとんどとなる。
否定(反対意見)を見聞きした時
まず「その意見に達した過程」を詳細に聞こうとする。自分では到達できなかった答え=未知なので好奇心センサーに反応が来るわけだ。
「どうしてそう判断したのか」「どこをどう感じてその答えに至ったのか」それらを聞いて、「であれば私のこの意見と類似点もあるがそこについてはどういう判断になるのか」「その過程ではここに矛盾点が発生しているがそこはどう折り合いをつけているのか」を聞きたい。
問い詰める意図はなく、ただただ「どうしてそうなったのか知りたい」以上でも以下でもない。
それらを聞いた時、私の見識が広がるかもしれないし、一理あると納得できるかもしれない。
自分の立ち位置をどうこうするために聞いているのではない。自分の導き出した答えは「持っている情報(視点)だけでできている」ので、新たに得たもので変わることもあれば変わらないこともある。
賞賛・褒められの発生
高確率でエラーを吐く。「嬉しい」という喜びや照れという「感情」が強く出るためだ。
感情は早期段階でノイズ処理されるので感情面が強くなった時は参照されない受信データの方が多くなり「今自分がどういう状態なのか」を把握することが難しくなり、結果として「困惑」になる。
もちろん、外殻側は「この評価に対してはこう反応する」というテンプレートのようなものを持っているのできちんと「喜ぶ」。ただ、内心(主に中立核)はしばらく困惑・混乱している。
「素直に喜べばいいんだよ」はとても優しい言葉だと思う。ただ、全ての判断基準にいる確固たる「中立核」がいる以上、なかなかそうもいかないのが現実なのだ……
何かに「怒る」という現象
基本的に「怒る」ことをはじめとしたネガティブなものはエネルギーコストが悪いので「無関心」に即時シフトすることが多い。ただ、時には「怒り」が強く残ることもある。
恐らく、「中立核」の持っている基盤が揺るがされるような事案で発生している。自分が重きを置いているものを中途半端な表現で否定されると、「それは違うだろう」という「矛盾の訂正」に近い形で怒る。
怒りというものは厄介だ。非常停止ボタンを担っている中立核にエラーが発生しているのでなかなか沈静化しない。いかに相手の言い分を自分の持つ情報で「こっちの方が理屈が通る」と認めさせるかに一点特化してしまう。整合性チェックも走らなくなるので、後で見返すと自分の発言に矛盾が多く見えることもあり、いたたまれない。
他者とやや踏み込んだ話をしている時
例えば相談事を聞いている時、解決案を出してもいい(共感だけ欲しいわけではない)場合。
相手の言い分はすべて聞く。入力段階では中立核が介入しないのでプレーンな言葉として入ってくる。
入って来た言葉に対し整理・分析が入る。どうしてそのような状態・言葉となったのかの推測が「自分の持っているベース」ではなく、事前にある程度出来上がっている「相手の推定ベース」を基本にしてまずは解析する。そこで不足している情報を「相手に伝わりやすく齟齬の少ない言い換え」を選択しつつ「つまり〇〇っていう感じ?」のような問いかけとして集める。YES/NOのニュアンスだけでも判断基準として使えるので何かしら相手から情報を得る為のやりとりがメインにしばらくは会話が進んでいく。
トータルして、ある程度ブレが出なくなってきたところで相手の目指したいであろう地点を確認し、そこに到達するにはどのような案があるのかを相手の反応を基準として探っていく。
結果として相手が変わるか否かは特に気にしていない。ただ整理したいだけかもしれないしね。
中立核の判断ベースを相手に寄せることで情報整理をしているのではないだろうか。
今回のまとめ
自己分析を続けてみて
自分がどうしてこういう事を考えて見ているのか。その一端を覗き見れたようなそんな感じです。
この処理方法が働く事にメリットもデメリットも無い、全て包括して「自分」なんだろうなと思っています。
ただ、こうして言語化することでじゃじゃ馬だった自分の手綱が可視化されて操りやすくなったなとは思います。発言前に冷静になる事ができる事が増えました。
そのうち根幹にある「中立核」の発生源の話とかもしてみたいですね。今までの人生、この中立核がいるからこういう行動になってたんじゃん!!って事がめちゃくちゃ多いです。
ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございます。面白かったかどうかはちょっとわかりませんが、多分未来の自分は「あの頃の自分はこんな風に自己分析してたのか~!」って面白がってると思います。
こんな風に考えてるやつもいるんだなぁ、と思っていただければ幸いです。
インターネットの海に脳内構造を放出し、これにて今回の〆といたします。
この後にここまで読んでくれたひとたちへ(?)のおまけとして多分一生答えが出ないであろう、私が考えてて一番楽しい話をして終わりにします。ありがとうございました。
おまけ:「世界(現実)」と「時間」と「自分」というもの
私の記憶は「点の集まり」である。
過去の記憶を再生すると、そこに「自分」も映る。動画再生はやや困難で、コマ送りのようになる。
どこからが自分でどこからが世界なのか。地に立つ自分を見ている視点にいる「私」は一体どこに属しているのか。この境界はきっとはっきりと分かれているものではなくグラデーションだ。
自分がどうしてこう在り、「今」という時間を生きているのか。
未来は推測ができる。過去は分析ができる。今は、ただ今であるという事実だけがあり、干渉ができない。
文字であれば打った瞬間に過去となり見返すこともその先の文章を推測することもできる。ただ、文字を打っている「今」だけはただ「文字を打っている」という自分しかいない。
私が「自分を構成するものたち」から唯一解き放たれている瞬間が、「今」なのだろう。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます